男はつらいよで寅さんを演じた厚み渥美清さん
渥美清さんは1996年8月7日に訃報がつたえられました。しかし世の中の人々がこのニュースを知る3日前にこの世を去っていたのでした。男はつらいよのスタッフや出演者たちもこのことは知らなかったそうです。
その理由とは一体なんだったのでしょうか?
寅さんの十字架を背負った孤独に生き続けた渥美清さんとは?
渥美清の生き様
渥美清さん(本名:田所康雄さん)は、1928年東京上野で誕生。父は地方の新聞記者をしていたが、それほどの収入はなく、母の内職で生計を立てていました。幼いころは満足に食べることができないほど貧しい暮らしをしていたそうです。
渥美さんは幼少のころ、家の近所にきていたテキ屋の歯切れのよい楽しい口上に心を奪われたそうで、テキ屋への憧れが幼少のころからあったそうです。
1945年終戦時に中学を卒業。実際にテキ屋を生業としていたのですが、23歳の時浅草のストリップ劇場でコメディアンとして役者人生をスタートさせます。
当時の浅草は演芸会の中心。テキ屋で培った口上で才能を発揮。25歳の時に浅草一といわれたフランス座に座長として招かれました。
その当時、渥美さんと一緒に出演していた松倉さんの話によると、
渥美清が出てきただけどーっと客席が沸いていた。舞台の上で客ともケンカする。客がごちゃごちゃ言っているとお前なんだ帰っていいよすわってることないどんどん家に帰っちゃえよ」と平気でケンカをしていたそうです。それでもお客さんは帰らなかったそうです。
しかし役者人生は順調にはいかず、1年後結核にかかり、右肺を全摘出しているそうです。闘病生活は2年半結核の人が亡くなっていく現実を目の当たりにてきました。
そんな中渥美さんは自分も闘病しているにもかかわらず、結核にかかり絶望する患者たちを自分の芸で励ましていたそうです。
渥美さんは闘病生活について「闘病生活は空白ではありませんでした。何か事あるたびにそのことを思い出すようにしている」と。闘病生活を送って渥美さんは『生きることに希望を与えられえる役者になりたい』と思ったそうです。
28歳で復帰した渥美さんは、酒やたばこをやめ演技力を高めることを追求しました。コメディ・ドラマ・映画に次々と出演。
そして、1968年40歳の時に山田洋二監督と出会い渥美清を主演に今までにないドラマを作ろうと生まれたのが『男はつらいよ』です。渥美さん自らテキ屋役をやりたいと訴えたそうです。ここから、28年間山田監督とタッグを組むことになりました。
1969年8月27日男はつらいよの1作目が公開されました。渥美さん自身の人生体験を生かし演じる寅さんに多くの人が魅了され映画は大ヒットしました。最初の2年間に5作品を公開。1作の興行収入は10億円を超えるそうです。
そして、一人の俳優が演じたもっとも長い映画シリーズとしてギネスブックにも登録されています。総観客動員数8000万人だそうです。すごい人数です。
ここから渥美さんの葛藤が始まります。
渥美清の葛藤と決意
大ヒットし続ける『男はつらいよ』渥美さんは寅さんがヒットを重ねると同時に寅さん以外の役を演じる機会が減少してきました。違う作品に出演しても寅さんと同じだけの評価を得ることができなかったのです。
当時渥美さんは親しい人に「渥美清が寅さんに吸い込まれそうだ」と話をされていたそうです。心の底から惚れ込んでいる寅さんの役そのイメージを大切にしたいという思いの一方で役者として様々な役を演じてみたいという葛藤に相当苦しんでいたようです。
渥美さんは新作が公開されるたびに劇場に足を運んで自分で見ていました。そうですそして足を運んでくれるお客さんの喜んでいる反応を見ると、闘病生活を送っている時に描いた夢「生きることに希望を与えられる役者になりたい」という自身の夢がかなっているという喜びを感じることができたそうです。
そして渥美さんは決心をします。「どれだけ苦しくても寅さんのイメージを守る」
渥美清と寅さん
寅さんの役以外の出演は減らし、ロケ地で大勢の人に囲まれても寅さんと同じように常に笑顔で愛嬌を振りまいた。渥美清ではなく、寅さんとして生きる東夷ことですね。
寅さんのイメージを守るため自分のことをほとんど語らなくなったそうです。
とあるインタビューの中で渥美さんは
「役者として一番いいのはその人がいくつだか歳もわかんないみたいのが一番いいやね」
「観る側としてはあんまり細かいインタビューとかあんまり細かい記事なんかでもってその人がどこどこの出身でどうでこうで今都市がいくつでってなるとげんなりしちゃう」
「歳なんかむしろわかんないほうがいいどんな所で生まれて何してきてどういう風になったんだかわかんないほうがいいだけど現実にその人が舞台にでたり現実にその人が出てくると魅入られてしまうそういうものに俺たちは惹きこまれる」
と話をされそのプライベートな情報は寅さんのスタッフにも話をしなかったそうです。渥美清と寅さんのイメージは一体になっていきました。
私の年齢はアラフォーですが、渥美さんのイメージは完全に寅さんでしかなかったです。
そして44作目を迎えた1991年に肝臓がんを患い48作目の時はがんが肺に転移。48作目の時は医者が出演できたのが奇跡というほどの悪い状態での撮影だったそうです。
この時の渥美さんは体重が落ちて、息を吸い込むたびに肺が痛かったそうです。
48作目を公開後、手術をするが手遅れになっていました。そして1996年8月4日に逝去されました。
渥美清、魂の遺言
渥美清さんは最後まで寅さんの役柄を大切にし続けてこられました。最後になくなるときも「俺の痩せ細った死に顔を他人に見せたくない骨にしてから世間に知らせてほしい」と死ぬ時でさえ寅さんのイメージを大切にした魂の叫びでした。
渥美さんは寅さんのイメージを守るために孤独と闘い続けたのでした。
ベッキーは家に寅さん前作のレーザーディスクがあるらしく、小さい頃から『男はつらいよ』を見ていたそうです。ハロウィンの仮装でも寅さんのかっこをしたほどの寅さ好き。この話を聞きながらずっと泣いていました。